
『祈れない人がいる時に』
おはようございます☀️
はらぺこ僧侶です🤗
今朝、祈ろうとしたら、途中で手が止まったんですよね…。
誰かのために祈ろうとして、思い浮かんだ顔が、なんかこう…素直に祈れない相手だったというか😅
今日読んでた聖書の箇所に、こんな一節があって。
書いたのはパウロさんっていう人で、聖書の中でもとにかく手紙をたくさん書いてた、初期の教会を支えてた人なんですけど。
その人が「すべての人のために祈りなさい」って言うんです。
大切な人や、心配してる人のためになら、わりと祈れる。
でも、自分を傷つけた人とか、考え方が全然合わない人とか、権力持ってる人とか、罪を犯した人のためとなると、急に手が止まる…そういうことってありませんか。
テモテへの手紙一、二章一節にはこうあります。
『まず第一に、すべての人々のために、願いと祈りと執り成しと感謝をささげなさい。』
この「すべての人」って、思った以上に広いんですよね。
で、実際に祈ろうとしてみると気づくんです。
相手の問題より先に、自分の中にある怒りとか偏見とか、「この人だけは無理」っていう気持ちの方が先に出てくる。
なんやねん、祈ってる側の私の方が整えられてるやん…ってなります💦
さっきの「執り成し」っていうのは、自分のためじゃなくて、誰かのために、間に立つみたいに祈ることなんですけど。
これって、相手を変えるための道具じゃなくて、まず自分が、その人を人間として見失わないための祈りなのかもしれません。
罪を犯した人のために祈るのは、その罪を軽く扱うことじゃないと思うんです。
責任は責任として問われる。
でも、過去の一場面だけで、その人の未来まで全部閉じてしまわなくていいんじゃないかな、と。
人はやり直せるし、やり直せる場所が必要だったりします。
私はそこに、イエスさんの福音を感じるんですよね🕊️
イエスさんって、立派な人だけを集めた人じゃなく…
社会からはじかれた人や、罪人って呼ばれてた人のそばに座って、「あなたの人生はここで終わりじゃない」って示した人だったと思うんです。
だから福音って、言葉で「信じなさい」って迫ることじゃないんだよなって。
愛だけで全部伝えられるわけじゃないけど、愛のない言葉は、ただの圧力になっちゃう。
愛でもう一度生きられる場所を作って、その源にイエスさんがいるってことを、必要な時に言葉でも伝える。
その両方が大事なのかもしれません😌
今日、祈りやすい人だけじゃなくて、ちょっと祈りにくい人のことも、思い出してみませんか。
好きになる必要はないし、何でも許す必要もない。
ただ、その人もまだ、変わる可能性まで失ったわけじゃないって、心の隅に置いておく…それくらいでいいのかなと思います。
今日の幸せの方程式🤗
人を裁かないことじゃなくて、その人の未来まで裁き切らないこと。
今日、私たちが自分の正しさだけで人を切り捨ててしまいませんように。
傷ついた人には守りを、罪を犯した人には本当の悔い改めと再出発を、その両方を支える人たちには必要な力を与えてください🙏
そして私たちが、愛を言葉だけにせず、言葉を愛から切り離さずに生きられますように。
今日も皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏
良い一日を🤗