
皆様、おはようございます☀️
はらぺこ僧侶です🤗
今日はちょっと、腹を括って書いてみようと思います。
珍しく、ど真ん中のテーマです。
キリスト教って、結局なんなんでしょうね。
神さまを信じる宗教です、と言えば間違いではないと思います。
日曜日に教会へ行って、聖書を読んで、お祈りをする人たち。
そんなイメージを持たれている方も多いかもしれません。
でも、それだけだと何か大事なところが抜け落ちている気がするんです…🤔
先に言っておくと、これはあくまで私なりの理解です。
教派や教会によって表現も違うでしょうし、私自身、まだ聖書を読みながら考えている途中です。
違うところがあれば、クリスチャンのお友達、あとで優しく教えてください🙏
私が今のところ感じているのは、キリスト教ってまずイエスさんを見ることから始まるんじゃないかな、ということです。
立派な人間になるための規則集でも、死後に天国へ行くための手続きでもない。
まして、自分たちだけが正しいと証明するための道具でもないと思っています。
イエスさんは、当時「正しくない」と見られていた人たちのそばへ行きました。
病気の人、貧しい人、罪人と呼ばれた人、社会の端に追いやられていた人たち。
そして上から「もっとちゃんとしなさい」と言うより先に、話を聞いて、食卓を囲んで、触れて、赦して、もう一度立ち上がれるようにされたんですよね。
ここなんですよね👆️
私はキリスト教を、正しい人だけが集まる場所というより、愛される資格がないと思い込んでいる人へ「それでも、あなたは見捨てられていない」と伝える物語として受け取っています。
もちろん中心には十字架と復活があります。
イエスさんは人間の暴力や裏切りや憎しみを十字架の上で受けて、それでも愛することをやめませんでした。
復活は、愛やいのちは暴力や死で終わらされるものじゃない、という希望なんじゃないかなと私は感じています🕊️
ちょっと乱暴に言ってしまうと、キリスト教って、神さまが遠くから人間を採点しているという話じゃなくて、神さまの方から傷ついた人間のところへ来てくれた、という話なのかもしれません。
「信じる」というのも、頭の中で神さまの存在に丸をつけることじゃなくて、イエスさんが示した愛を信頼して、その愛の方向へ少しずつ生き方を変えていくことなんだと思います。
失敗しない人になることじゃなくて、失敗した時にも愛の方へ戻っていくこと。
聖書に、こんな短い言葉があります。
神さまって、結局「愛」そのものなんだよ、という一節です。
『神は愛です。』(ヨハネの手紙一 4:8)
短いのに、逆に難しい言葉ですよね😅
だって現実の宗教は、愛とは反対に見えることもあります。
押しつけがあったり、排除があったり、偽善があったり、正しさで人を傷つけてしまったり。
キリスト教に傷ついた人も、実際にたくさんいると思うんです。
だから「キリスト教は愛です」で終わらせたくないなと思っています。
本当に愛かどうかは、私たちの言葉や態度や、人との接し方に表れてくるはずだから。
人を怖がらせて従わせるのか、それとも、その人がもう一度生きられるように支えるのか。
自分と違う人を追い出すのか、それとも、違いがあっても隣に座れるのか。
キリスト教を説明する言葉より、クリスチャンがどう人を愛するかの方が、たぶんずっと伝わるんですよね。
なんやねん、結局こちら側が問われてるやん、って話です😅
私にとってキリスト教は、今のところ、イエスさんを通して神さまの愛を知って、その愛から逃げずに生きていく道です。
完璧にできているわけではありません。
むしろ、できていないことばかりです…💦
でも、怒りや不安や自分の正しさに飲み込まれそうになった時に、もう一度イエスさんの方を見て「愛の方はどっちだろう」と考え直す。
それが信仰なのかなと、今のところ思っています。
クリスチャンのお友達へ。
皆様にとって、キリスト教とはなんですか?
私の理解で違っているところや足りないところがあれば、ぜひ教えてください。
そしてクリスチャンではない皆様も、キリスト教にどんなイメージを持っていますか?
良いイメージでも、悪いイメージでも構いません。
苦手だったこと、少し良いと思った部分、そんな率直な声も聞いてみたいです。
信仰を押しつけるためじゃなくて、まず互いを知るために。
今日はそんな問いを、皆様のところに置いてみます。
キリスト教って、結局なんでしょうね。
私もまだ、イエスさんを見ながら考えている途中です😌
皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏